昭和56年 3月 18日 月次祭
秋山誠治
えー、新田原という所から、堀内さんを中心にして、いくらもお参りがございますが、最近あちらの共励会に出らせて頂いて、まぁ,私も、よく顔を知りません位の方でございましたけれども、ご祈念をなさっておられたら、こういうお知らせを神様から頂きましたというお届けがあって、有難いですねー。こんな有り難いお知らせを頂いてと言うて、申しました事でしたけれども、1本のロウソクがこーと燃え上がっておる。はぁー、ロウソクに火が付いて赤々と燃えておる。それを拝ませて頂きよったら漢字の徳という字に変わった所を頂いたと言うのです。ね、皆さんなら、お分かりになるだろうと思うね。勿論、信心の光、心に光をと言うでしょう。光なんですね。いわゆる、信心の喜び、真の喜びです。おかげを受けてやれ有り難い、これもやっぱり、あの、有り難いに間違いないのですけれども、ね、それ以上に、いうなら、有り難い事は、日々、私共が、天地の御恩恵の中に有って、しかも、金光大神の深い大きな祈りの中に私共が生活させて頂いて、今日も平穏でした。無事でした。今日も、たとえば、こうしてお参りが出来ましたという事は、もう、もっともっとだいたいは有り難い事でなければならんのですけれども、その有り難いと言う事を実感としてね。感じられる。そこに信心の稽古がいるんです。信心の光、それgs、言うならば、重なり重なり、積もり積もって信心の徳、ご神徳ともなるのです。人間は本来、ゆうならば、ご神徳の塊のようなもの、これはね。私共、生を受けた時、もう、即生神といわれる。神の性根というものを頂いて、この世に生を受けるんですけれども、段々、物心付く様になって自我が出る様になります。そして、我情が募り我欲が募って来て参りまして、いよいよ、生神の性根というものが、薄くなってくる。だけなら良いけれども、無くなって来る。そして、もう、似ても似つかない性根に変って行く。言うならば、人間の姿、形はして居るけれども、心は夜叉のような、犬畜生にも劣り果てたというような心にもなりかねない。
人を殺めたり、または、人を憎んだり、悲しめさせたり、それを平気で出来る。平気でする。もう、性根がすでに変っているんです。汚れに、汚れているんです。ね、例えば、こ言う布類なんかでも、その汚れてまいりますとね。垢で真っ赤になってくる。そうする頃になると性が変ってくる。布の性が変って、ビリビリするようになる。破れるようになるようなものと同じじゃないでしょうか?人間は、そういう風に成り果ててはできんのです。ね、いつでしたか頂きました。あの柿の種を2つに割ったら、芽がこう、人間の心も、割ってみると、ちゃんと生れた時にすでに生神の芽がこころの中に頂けて居るんだ。けれども、それを、例えば、ほっておっただけでは芽もきらないので御座います。それを、土に、
土の温み、太陽の恵み、それを頂いて始めて芽を切る。そして、それがまた、木もなりゃー、枝にもなり、そして、また、実りともなるのです。この道理をあの頂きました時に、確かにそうだなーと、信心とは、言うなら生神の性根を頂いておる。それが、何年間そう言う事も知らずに、言うなら、我情我欲で生きて来た。自分の思いだけで、自分の我情だけで生きて行けれ、それで幸せになれるかのように思うて、やはり、幸せになりたい、幸福に成りたいと言うて、まぁー、学校も出来るなら大学もやりたい。行きたい。色んな技術も身に付けたい。昨日でしたか、佐賀の方でしたが、大変優秀な成績で大学を出た。そして、東京にといてもいい所に就職のお陰を頂いた。所が、急に会社で倒れなさった。頭に、腫瘍が出来ておった。あー、早々、光橋先生の、ここの光橋先生の所の息子嫁のお兄さんであった。それで、今から、東京に発ちますからと言う、嫁から連絡があって、お届けがあったんですけれどもね。技術も誰よりも優れておって、頭も誰よりもよかった。しかも、就職先も、すばらしい所に就職したけれども、もう、そして、時間の問題だと言う通知があった。その事を、光橋先生がお届けされたんですけれどもね。なら人間が、地位が出来た。お金が出来た。立派な家が出来た。と言うだけでは幸せではないです。
昨日も、秋永信徒会長のお導きで、先生がわざわざお導きして見えたご婦人がございました。ま座、60と言うけれども若い方でしたが、今まで、いい所にお勤めになっておられたんだけれども、所が、辞められる事になった。それで、あちらからも、此方からも、そんないい方ですから、立派な方ですから、その、うちに来てくれ、うちにきてくれと、こう、いわれるから、迷いである。どこに勤めさせて頂いたら良かろうか?と、御兄弟が参って見えますから、まぁ、秋永先生に導かれて参って来た。それで、その色々言われるのを頂いて、どれも、ペケ(×)なんです。いけない、それもいけない、これもいけない。そして頂きます事がね。ここにしばらくね、じっと足踏み状態のようだけれども、いうなら、自分の心を見つめさせて頂く時間がなからなければいけない。そうして行く内に、よい、又、お仕事の口も掛かって来るでしょう。という事でした。それで、ちょうど、その前に樺目の池尻の池尻先生が小学校の6年生を受け持っております。それで、昨日は、今日ですか、卒業式があるというので、子供達にお別れの、餞別の言葉を送りたい。それで、先生これに一筆書いて下さいと言うて、色紙を持って参りました。それで、私は神様にお願いをさせて頂いて、もう、ありふれた、もう、言い古されておる様だけれども、頂いてみて、新しく、新たに、そうだなーと、こう、思たんですけれども、「心を大切に」という事。佐ぁー、これから、小学校を卒業した。これから、中学校にも、大学でも、しっかり元気でがんばって、次の勉強をさせてもらわなければいけないぞと、しっかり頑張ってくれよと言う事は、誰でも言うんだけれども、ね、心を大切にということは、中々、しょうともしません。中々言いません。又、どういう風にして大切にしてよいのかも分かりません。けれども、まぁー、その事をその婦人の方に申しました事でした。60にもなると言っておられましたが、60年間、次々とよい勤めをして見えられた。それで、又、すぐ、あちらこちらからいうてこられる所に勤めたいと思うですけれども、もう、60にもなったんですからね。少しは、自分の心を本気で見つめてみる。見直してみる事。そして、結局は人間の幸せの元と言うのは心に有るんだと言う事だけでも、分かって就職をされたら素晴しい事だろうと言うて、お取次ぎさせてもらった事でした。今日、新田原のご信者が頂かれたようにね。とに角、心に光を頂く、心を大切にするという事、心に喜びを感じさせてもらえれる、言うなら、手立てが信心だと思います。それも、今日、久留米の方から参ってまいります。若いご婦人の方が朝方から本当に有り難いお知らせを頂いたという。それは、どういう事かと言うと、私の方に若先生がお見え頂いとりました。あー、お陰頂いたとお迎えさせて頂いて、その入り口の所へ、こう、あの、靴を脱ぐ所に、マットが、こう、敷いてある。そのマットも上に立っておられる若先生のその足元をしっかり、もう、見せて頂きよって、その、そこを立たれた後に、そのマットをこうやって、ほこりを打ち出しておる所でございましたと、こういうね、それで、それは中々、まぁ、若先生においで頂いたから、有り難いという事ではない。それはね、人の足元を見るなと言う事ですよ、そして、叩けば誰でもほこりが出らんものはないのです。だから、もし、そう言うようにです。特に、若先生という事は、日々お取次ぎを頂かなければならない先生の足元が見えるようになる。先生の足元も叩けばほこりが出るようなと、言うような事に、信者と教師の仲がなったら、もう、お陰が受けられんのですよと、ですから、人の足元が見える時には、先ず、自分の心の破れから、見えているんだと思うて、自分の心が見えれば見える程、自分の心を見つめる所のお陰を頂かなければなりません。ある人が、向かえのお嫁さんが、本当に向えの嫁さんはいびたりだなー、障子は破れかぶれになって障子どんはれよかところにち、いうてからいよった。どこから見よったかと言うと、自分がたん障子の破れから見よったち、そんな事ですよと言うて、その方に話させてもらった。本当にそうですね。そしてから、自分の心を見極めた時に、こういう心をです。いつも、教えによってここはこうあるべきだ。ここはこう改めるべきだと分らせて頂くということが、信心の有り難い事なんです。ね、それが、いうなれば、光にもなってくる。それが積もり積もってお徳にもなってくるんだと、信心の稽古をさせて頂くという事は、そう言うことだと思うんです。そして、究極は人間が持って生まれた時に、生まれた時に持って頂いて来ておる、その生神の性根というものをいよいよ、いわゆる、心を大切に、どういう手立てを持って大切にするか?それを、合楽理念では 色々な角度から説きます。先ず、第一に成り行きを尊び大切にさせて頂く、または、土の心でと言う風に説きます。その柿の種を二つに割ったら中にはすでに芽がある。この芽が土に、土をかぶせて、そして、水分が与えられて、太陽の恵みを頂くと、いつか、それが芽をきる。それを段々大切に育てて参りますと、それが、木にも、枝にも、ゆうなら、花にも、実にもなろうというもの。人間はだから、誰しもがその気になれば、生神になれると言う事がご神徳を受けると言う事です。だから、ご神徳そのものは、こちらに頂いているんだ。人間は万物の霊長だからと言われる、いわゆる、霊長としての値打ちを頂いておるんだ。だから、霊長である。ゆうならば、もん(者)でなければならない心、その心を大切にする。牛やら、馬やらというものは、反省とかそう言うことは出来ません。人間だから出来るのです。だから、その反省をね、させてもらう。そして、その反省と、その心を教えに基づいてお陰を頂いてまいりますと、心の調子、心の調和が取れて参りまして、一切を有り難い、有り難いで受けて行く事が出来る。この方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労させんと仰せられる。今、申しますように、お願いをしてお陰を頂いた。思うようになった。やれ、嬉しいや、ですけれども、お願いをしたけれども、右と願っておったけれども、左になったと言う様な時でも、喜べれる信心です。これも、今日、一昨日でしたか15日が信徒大会でした。あゆう盛大な大会がございました。あくる日、今夜も参っておられると思いますが、林さんが、朝参りをして見えて、お届けされる。もう親先生、昨日の信徒大会は、もう、本当に始めから最後まで感動一杯で、しかも、親子で頂く事が出来ました。とりわけ、久富正義先生のお話を、ま、頂いておりましたが、先生との出会いの所から聞かせて頂いた。ね、もう、ここでは秋永先生とか、久富正義先生なんかが、一番古いんです。その、そもそもの出会いの所から、そして、今日まで数10年間、様々な所を通りました。それこそ、血の涙の流れるような所も通りましたけれども、信心辛抱し抜かせて頂いておりましたら、いつの間にか日勝りになり、年勝りになり、思い掛けない、お陰の今日を頂いておるという先生のお話しを頂いて、息子が申しました。信心には辛抱が大切だとね。どういう場合であっても信心で受けていくという生き方を、しかも、身に付けて行く。それが、信心の徳を身に付けて行く事になるのです。ね、ですから、その辺の所を私共が思わせて頂いて、頂いておるご神縁を頂いたと言う事は、こんな不思議な事はない。皆さんが奏上されますあれにも有りますね。ご神縁を頂いたと言う事は、もうそれこそ、不思議な、不思議な働きが起こって、氏子助けずにはおかん、幸せにせずにはおかんという働きを受けられる。言うならば、チャンスを頂いたんですから、その機会を私共が本当に機会と悟らせて頂いて、いよいよ、いわゆる、心を大切に、心に光を頂ける手立てをいよいよ本気でそれを頂きたい。今朝からの朝のご理解に天地金乃神は世界中が神の広前である。畑で肥をかけておっても、神の中を分けて通りおるような、どんな汚い事をしておっても、神様の懐の中、神の中を分けて通りおるようなものだと言うご理解でした。それに対するご理解でしたけれども、これはね、天地の大恩ですよ。天地の御恩恵ですよという事を話を聞けば、成る程、水、ひとすくいでも、米一粒でも、ご神恩、ご神徳のおかげである事は分かるんです。人間が作ると言うても、気丈にお米を作る事は出来なければ、そのお水一滴でも、自分で作ると言う事は出来ません。神様は限りなく与えて下さるものなんですから、分かるんですけれどもね。心に有り難いと言うものを感じると言う事は、いわゆる、心大切にしておる修行が続けられておらなければ出来んのです。私はその事を、昨日ここで毎月17日は合楽会です。合楽の皆さんが集っまって信心共励をなさいます。そこの久保山さんが発表しておられました話を、今朝のご理解に聞いて頂いた。この13日の13日会、それから、15日の信徒会で、大変お陰を頂いた話しをなさっておられました。さあー、今日13日会だからお参りしょうと思っておったら、小さいお孫さんがおばぁちゃん私も参るとこういう、ならお参りしなさいと、そしたら、その孫がお母さんに、お母ちゃん、あなたも一緒に参れと言うた。そしたら、お母さんが、んなら私もお参りしましょうかと言うて、そしたら、今度はおじいちゃんに、おじいちゃん、おじいちゃんもお神様に参りなさいと、所が、おじいちゃん言われる事が、私が参ると、留守番がなかごつなるけん、おじいちゃんは留守番をしとくから伸江ちゃんと言いますから、伸江ちゃん帰りに御新米を頂いて来てくれとおじいちゃんが言われた。そんなら、御神米を頂いてきてやるねと言うて、まぁー、親子3人、孫4名、おばあちゃんとお参りが出来て、もう、本当に有り難い13日の皆さんのお話を聞かせてもらい、最後の親先生の、いわゆる、拝み合いと言うね。信心は、おがまにゃならんじゃなく、拝まずにはおられない心が生まれて来る事なんだよ。それには、天地のリズムを聞きながらリズムに乗った、言うなら、良い事、悪い事、すべてがお取次ぎを頂いて起こって来る事、良い事悪い事みな良い。お取次ぎを頂かずして起こって来る事、良い事、悪い事みな悪いね。お取次ぎを頂いて、日々信心の稽古をさせて頂いて、とりわけ、この久保山さんという方は、もう、今日も成り行きを大切にさせて下さい、尊ばせて下さい、という、もう、一点張りな信心をなさいます。もう、徹底して行かれる。そこにいつもリズムを聞いておられる。本当に親子3人の者が、今朝の御理解有り難かったと言うて、帰らせて頂いたら、家から親先生の声が聞えた。主人が一生懸命テープを聴いておる所でございました。しかも、その流れてくる親先生の声がちょうど親奥様の誕生の日に、親先生が神様から頂かれたと言う「拝みあいつつ、拝まれつ」という、あのお歌の説明があっておる所に私が帰りました。もう、それこそ、嫁と顔を見合わせて、今、拝み合いのお話を頂いて来たが、家では、おじいさんがその拝み合いのご理解を頂いておる時に、もう、なんともいえん感動でしたと言うのです。ね、そう言うリズムがいつも教えを本気で行じさせて頂いておると、孫の口を借って、お母さんが導かれる。おじいさんが導かれる。しかも、そこにはです。いわゆる、拝み合いのお話を聞いて来たら、家では、又、おじいさんが拝み合いの話を聞いておった。もう、神様のその、まぁー、素晴しい演出とは言いながらね、その働きに恐れ入ったと言う体験談でございました。ね、そう言う生き方をさせて頂いて行くと言う事がです。いよいよ、心を、又、大切にするという事でもありましょう。
久保山さんが言われるように、もう、8年でしょうか、毎日日参のお陰を頂くようになって、とに角、成り行きそのものが、神様の働きなのだ。私の上に起こってくるその成り行きの全てが、神様があなたに求め給う所のご修行なのだ。腹の立つこともありゃー、歯痒い思いをする事もある。又、有難い事も色々あり、色々な事がありますけれども、良い事、悪い事、お取次ぎを頂いて起きて来る事、全てが良い事であったと頂かせてもらうのが成り行きを尊ぶという事、成り行きを大切にさせてもらう。ね、そう言う中から、言うならば、今申しますように、妙なる神様のリズムを聞くような、日々の生活を送って行く事が出来る。そう言う生き方が、私は心に、心を大切にする事、心に光を頂く事、その光がそのまま、お徳にもなって行くと言うお陰を受ける事であると思います。ね、だから、もう、合楽ではお話を頂いて、それを実験して行く人にはかちません。もう、実験そこから生まれてくる実証です。その実証が有り難いのです。ね、それが、お陰と思われる事も有り、お陰でない様に思われる事も有るようだけれども、それが神様のご都合であり、ご神愛であると分かるとその事に対して御礼がいえれる様に、段々なって参りますから、良い事、悪い事全ての中にお礼がいえれる生活が出来るのです。それがそのままお徳なんです。ね、そう言う信心の稽古をさせて頂くのですから、お願いをして、お陰を頂いたの信心から、いよいよ、自分の心の仲に、言うならば、心を大切に、それは、手立ては合楽理念に基ずいて心に光を頂いて行く。その光こそがご神徳の世界、いうなら合楽世界に住むことの出来る程しの元になるものだと言う事であります。それは、様々な事がやっぱしある。降る事もある、照る事もある。もう、本当に雨嵐という事も有りますけれども、それこそ、正義先生の話で、聞かれた方は感じられたでしょうけれども、もう、それこそ、これで吹き折れるかと思われるような事もあった。「雨風も」すげれ、あれはなんやったかの?天に任せて、地にすがれでしたかね。忍べ折れるな若竹の節。これは先生が大変な病気の重態に落ちた時に頂かれたみ教えです。どんな時であっても、それを忍んで、折れずに、その若竹の節が、いわば、立派な竹になり、それがどういう細工物でも使えるような、それが、今日、筆頭総代として御用を頂いておる。ね、どう言う事にでもお使い回し頂けれる信心がそうして育って行っておるわけです。だから、そこをね、貫く信心が、信心にはどうでもいるのです。どんな場合であっても、いわゆる、神恩又神願として頂かせて貰う。
三代金光様が仰せられますように、信心には辛抱する事が一番大切でございます。と仰る、その辛抱も、今日、皆さんに聞いて頂いたような、ね、その時、その時を有り難く味わわせて頂く、味わいの信心を頂かせてもらい、こんな物が頂けるかという様なものでも、調理ひとつでは、それこそ、珍味として頂けるような料理があるように、どういう事であっても私共の味付け加減、調理加減ひとつでは、あり難く頂けると言う事を体得して行く事が、信心だ、それがそのままご神徳を頂く、言うならば、信心だという事になります。
どうぞ。